蓮馨寺について

■関東十八檀林
当山は徳川幕府の定めた、国家公認の学問所でした。

■浄土宗伝法・大本山増上寺第十世在住時

当山第一世・感誉上人は、今日の浄土宗の正統な考えを確立した人物でした。

■徳川家康を増上寺と結びつけた源誉存応上人
源誉存応上人は当山で修業した後、大本山増上寺・第十二世とな
り、徳川家康を増上寺の檀越としました。徳川家は三河時代から浄土宗の信徒でした。

■幼名・松平元康より改名
徳川家康に改名した時代は当山の資料で知ることができます。

■知恩院の阿弥陀三尊は当山が寄進
浄土宗総本山・知恩院本堂の阿弥陀三尊は、当山第九世で後知恩院第三十七世となった知鑑上人が寄進したものです。

 

阿弥陀如来

 

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当山のご本尊、阿弥陀如来像は、鎌倉時代(弘安一、1278年)に作られた文化財です。すべての人々を最後には極楽浄土に救いとる仏様で、現世においても、人々を幸せへと導く仏様です。

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戦国の世も末の頃、川越を平定した小田原の北条氏康は、家老の大道寺駿河守政繁(だいどうじするがのかみまさしげ)を川越城の城主としました。寺の名となった蓮馨大姉(れんけいじだいし)は、その母堂で、社会の平安を祈り民衆に心安らぐ場を与えるため、甥にあたる英才の誉れ高い感誉存貞(かんよぞんてい)上人を招いて第一世としました。天文十八年(1549年)が蓮馨寺の始まりです。存貞上人は後に、現在の浄土宗大本山増上寺の第十世となり、浄土宗伝法を確立。現在でもこの伝書を受けることが、浄土宗の僧侶になる条件となっています。又、当山にいた弟子の存応(ぞんのう)上人は、やはり大本山増上寺の第十二世となり、その人徳によって徳川家康と代々将軍家が檀家となったのです。

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呑龍上人は、当山におられた存応(ぞんのう)(のちの観智国(かんちこくし)、徳川家康の宗教上の最高顧問)の直弟子で、以前より各地をめぐっては旱魃(かんばつ)で作物が取れず窮乏する地域にはその威神力によって雨を降らせ、飢饉で農家が困るとその子供たちをあずかり育て、あらゆる困りごとをたちまちのうちに解決し、多くの人々を幸せにした生き仏様です。現在でもその救いの御力にあずかる祈願を毎日受付けており、あらゆる願いを叶える祈願所として、善男善女を集めています。
毎月八日は縁日(呑龍デー)で、境内では各種出店、伝統芸能や辻講釈(宝井琴梅師匠)が繰り広げられ、川越名物の一つとなっています。

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祈願所(呑龍堂)の正面には「おびんずる様」が鎮座しています。参拝者がその体を触ると病気が治り、頭を触ると頭が良くなるといわれ、大人気の仏様です。もともとはお釈迦様の弟子で、寺の中にとどまらず、インド各地を巡り、人々を救うよう命ぜられたといわれています。このため、多くの「おびんずる様」は寺の外に祀られています。

林崎甚助

 

 

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出羽国(現在の山形県)出身の林崎甚助(はやしざきじんすけ)公は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武芸者で、居合抜刀の始祖といわれます。生涯武芸の道を極め、旅先の川越の地で終焉を迎え、当山で葬儀が執り行われました。境内には「林崎甚助重信ノ鎮魂之地」の石碑が建立され、毎年2回、全国から名将が集い、奉納演武会が開催されます。

北条氏家紋